初めて読んだアンネの日記。
しばらく放心状態です。隠れ家一家のその後の成り行きは知った上で読んでいますから途中からは、アンネの日記を綴る姿を想像しては、絶望と脱力、なんとも言いようのない感覚に襲われます。自分の運命を知らない13,4歳の少女が夢や希望を自らに言い聞かせ、一方ではユダヤ人として、戦時下にある者として、自分の死の覚悟をもちらつかせる生々しい描写を読みながら、なんとか助かってほしい、史実とは別の展開がこのあと待っているんと違うんじゃないかと祈るような気持ちになります。
日記では、日々の出来事、周りの人々の様相、それに対するアンネの考え、自分の感情の動きや希望、戦況などが綴られています。そこから見えるのはまず戦争の悲惨さなわけですが、私が連想したのは、異質なものを排除する心理、について。
3年ほど前にある講演会で、異質なものを排除することは、特に日本文化の中で特筆すべきもので、例えばアメリカがもし日本であればトランプさんがトップにいるというのはとても想像がつかない、アメリカはなんと人に寛容な国なんでしょうか、といった趣旨のことをお話したことがあります。突き抜けた主張が実際には真理をついていても文化的に許容できる範囲を超えた”出る杭”であれば容赦なく叩くのが日本の文化の特筆すべき一面であり、突き抜けた主張をする著名人が批判の嵐に合うことが頻繁に見られるように思います。コロナ対策の方針を巡っても「合理性」と「皆がやっている、求めている」は相容れない様子で論争はいまだに続いているようです。
一方、不思議なことに欧米人が突飛なことを言っても案外寛容でうんうんそれはそうだろう、とあっさりと受容してしまうこともよくあります。それに第一次世界大戦後には人種差別撤廃を世界で唯一発信したのは日本です。なんだがちぐはぐな所があります。「見た目で差別しちゃあいけないんだけど、みんな中身は同じでなきゃあいけないよ。でも外国人ってのは中身が違って当然だよ」ってな具合です。
翻って精神科医療の偏見と先入観。どうにか変わらないものかなあと思います。
変えるにはまず自分ができることを一つ一つする以外にありませんが、するとまず精神科医自身や支援する人たち自身が変わっていかなくてはいけません。そして障害を抱えた人自身やその家族が変わっていくことも手助けする必要があります。今や精神科受診はなにも特殊なことではなく心の風邪を引いたのでかかりました、という具合に当たり前に受診できるようになってきていますが、それでも、精神科に行くのはちょっと、、、と何年もの間、家族や自分自身で抱え込んでしまうケースがあります。そこには、家族や患者さん自身の精神疾患に対する偏見、先入観、無知がゆえの病気への怖ろしさが潜んでいるかも知れません。そのことを責める訳ではありません、そういう気持ちが裏に潜んでいたのかも知れないということを支援者である我々は理解しなくてはなりません。理解することが世の中の偏見をなくす最大の近道です。
アンネの記述は、今なお差別、戦争が続く現代人の心にまだまだ新鮮に響くのではないでしょうか。
では。
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